最愛の母との最後のお別れ(9月7日の告別式)。

最高気温度32度、最低気温18度日の出5時23分、日の入り18時4分
 朝5時に起きて、イチゴの苗に水やりをする。この暑さで、苗の蒸散と乾燥が速い。館長と社長のいない今日は仲間に委託された苗の出荷8500本があり大変である。
 7時40分からお別れの儀があり、8時10分に火葬場に向けて出棺でした。母には、お腹が空かないように大好きな食べ物を各自が用意(サツマイモ、梅干、コーヒー、柿の葉寿司、八橋、佃煮など)したり、お気に入りのハンドバックと化粧品、父の写真、桜のお花見の写真、富士山の写真、鎌倉の駆け込み寺のご住職様に書いていただいた母のお気に入りの掛け軸など母に持たせたあげました。
 火葬場への移動中、母の大好きな富士山が見えることを、母に報告する。
もう雪も無い富士山でした。
 写真は、5月末に本栖湖の芝桜と富士山を見に行ったときの母と館長。
何処に行っても母は、子供のようにしっかりと館長の手を握って離しません。今でも、チョット冷たいけど母の温もりが思い出されます。
横浜から見える小さな富士山が、大きく見れて感激していました。認知症の母も、この富士山の美しさと思い出は忘れませんでした。
 館長と母の背の高さの差を見て、自分はドンドン小さくなると嘆いていました(笑い)。
 火葬後、母の骨を収骨したが、やはりくも膜下出血により頭の骨の裏は黒くなっていました。骨壷には、母の入れ歯やメガネや腕時計を入れてあげました。
 告別式は、11時半から執り行なわれました。老人ホームの方だけには、ご連絡しておいたので、宝福施設長さんと剣刀さんがこられました。僅か半年のお付き合いでしたが、母とのお別れを心から悲しんでおられました。
 本当に施設の皆さんには、大変母がお世話になりました。心から、お礼申し上げます。
 母の戒名は、”慈唱院妙蓮日好信女位”をいただきました。
 告別式の母の照会文は、次男と館長と司会者の方で作りました。
 故好子様、90歳、平成21年9月7日。
 縁をつないだ皆様が集い、在りし日の面影を偲びつつ、お別れのお焼香をおくり、安らかな眠りをお祈りくださいました。
 生涯の伴侶となられたご主人様と共に喜びも切なさも明日生きる力にかえて沢山の夢を育み手を差し伸べあって来られたお二人、我が宝三人の子供達、授かった五人の孫、三人のひ孫、広がった家族の絆は、母の頑張り、おばあちゃんの深い思いやりの証。
 我慢強く、自分の幸せよりも他人の幸せを願い、我が為より他が為にと人に尽くされるお人柄。
 交わした何気ない会話、一つ一つに心が和らぎ、そば居るだけで、悩みや辛さは柔らかな笑顔に癒され、心和んだ日々。
 家族見つめるまなざし温かく、差し伸べる手のぬくもりやわらかく。さりげない優しさも今なお愛おしく、ほころんだ心を手当てしてくれた易しい母、おばあちゃんとしてのお姿がございました。
 若い頃にはピアノを弾く姿があり、指がもう少し長かったらピアニストになっていたかもしれないそうです。
 また、若い頃からコーヒーをこよなく愛され、大の巨人ファン。時には野球観戦をたのしまれて、子供のようにはしゃぎながら応援し、勝ったときのあの姿、嬉しそうだったこと。
 多彩な趣味を持たれ、音楽鑑賞、特にクラッシック(ベートーベン・皇帝)(チャイコフスキーコンクールで優勝された、上原彩子さんのピアノ協奏曲が大好きで良く聴いていました。
 詩吟、琵琶、ロマンドール、アートフラワー、陶芸に手芸、そして年をとってからパソコンにも興味を持つほど、好奇心旺盛。
 としを重ねても、いつも身なりには気を配りお化粧され、おしゃれしていた好子様。
 自ら”はいから、ばーちゃん”と言うほどでした。シャイで照れ屋な一面もあり、写真を撮るのが苦手ですが、優しい微笑で皆様を見つめてお出での語遺影は、横浜から山梨に引っ越してきた時に、撮られた思い出深き一枚と伺いました。
 息子と一緒に暮らせる嬉しさが、こみ上げてきた笑顔の一枚。大正7年10月8日、この世に生を授かり、戦中・戦後の混乱期を乗り越え。移り行く時の流れの中、物の無い時代を生き抜き、何時の時も楚々として可憐な花を咲かせ続けて来られました。
 人生と言うキャンパスに家族と分かち合った幸せや、一人天を仰ぎながら涙した悲しみなど描いて来られました。つずらおりの人の世で、命の炎さかんと燃やして来られました。
 ”男の子三人の子供にめぐまれ、長生きで来て幸せだった”と言っていた好子様。命の炎一滴まで、ご家族をはじめとし、周囲の皆様を愛し、我が為より他がためにと尽くされたと音気ご生涯でした。
 命の糸をつないだ家族を思うお心は限りなく、生き詰まった時、キット心の傘を差し伸べて下さることでしょう。
 ご家族からの一言をお伝えし感謝の心でお別れでございます。
”人に遠慮せず、待っているかの地のおじいちゃんと好きなものを食べたり、好きなことをしてください。”
 数え切れぬ温もりを運んでくださったその翼を休め、心よりご冥福をお祈り申し上げます。
 初七日が終わり、母が自宅に戻ってきました。母の沢山の、大好きなお花を飾ってあげました。横浜で四十九日と納骨を行う10月11日まで、山梨の館長の自宅で供養します。
 疲れたが、母にもう会えない寂しさと言うか、存在して当たり前の空気が無いように感じて息苦しい。毎日5時頃には母を訪問していたので、その行き場を失って、自分が何処に行って良いのか分からない。
 行き場所を失った館長は、イチゴの手入れの葉欠きをしました。イチゴの手入れをしていても、目に浮かんでくるのは母の顔・・・・・。
 今日は泣くまいと思っていたが、母の写真を見る旅に、涙涙の連続!
明日からは、気を紛らわす為にイチゴの栽培に専念しよう。
 

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